2013年9月30日月曜日

国立ハンセン病資料館

自転車で、清瀬市にある国立ハンセン病資料館に行ってきました。



資料館の説明をするのが難しいのでパンフレットより引用。

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ハンセン病は日本にも古くからあり、さまざまなかたちの差別が続いてきました。国がハンセン病への対策を始めたのは1907(明治40)年の法律制定からでしたが、治療よりも患者を療養所に隔離することを主とした内容でした。

療養所に入れられた患者は外出を禁止されていました。労働にも従事しなければならず、外出したり職員に従わなかったりすると処罰されました。患者同士の結婚は認められていましたが、子どもを持つことは許されませんでした。

国はやがて、すべての患者を一生療養所に閉じこめておく絶対隔離へと方針を強化しました。地域ごとに患者を見つけ出して療養所へ送る社会運動も展開されました。

第二次世界大戦後、治療薬が登場しても、国は積極的に患者を社会に戻そうとせず、社会も患者を受け入れないままでした。患者は療養所にしか居場所がない、実質的な隔離状態に置かれ続けまた。 そのため患者は療養所の中を暮らしやすくしようと長年努めて来ました。

1996(平成8)年ようやく法律が廃止になり、2001(平成13) 年には国の対策の誤りを認める判決が出るなど、近年ハンセン病回復者をめぐる状況は大きく変わりました。しかしその一方で、回復者の老齢化と人数の減少が進んでいます。

今や入所者にとって生活と医療は療養所にしかなくなり、社会復帰者は無理解や偏見に曝されること のない医療を療養所に期待しています。そのため療養所の存続を可能にする方法と、回復者・家族・社会の結びつきの再生が、大きな課題になっています。

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外出することが許されず、療養所が自分の骨を埋める場所だと思いながら生活する人々の気持ちとは、いったいどんな気持ちだったのか?そんなことぐるぐる想像したりしながら周辺散策。



療養所の磨全生園は、今ではだれでも入る事ができて、ちょっとしたお散歩コースになっていました。



そして日本社会事業大学!!福祉界の東大という異名をはなつ隠れた名大学!!

基本的に平面図とは関係はないのですが、ここの学校出身者が周りに多いので、身内ネタのつもりで行ったきました。ここの学生いわく宮崎駿がよくこの辺に現れるとか。

病院や福祉・医療系の施設がやたらと多く、確かに他の街とは違った印象をもちます。まだまだ知らない事がいっぱいありそうな予感の清瀬市でした。





























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